2012.03.11
1週間前の3月4日、清瀬市けやきホールにて、木原せいじ後援会として、復興元年シンポジウムを開催しました。
スピーカーとしてお越しをいただいたのは、①福島県1区を選挙区とし、動かない政府を尻目に復興活動に奔走してこられた亀岡偉民前衆議院議員、②身元不明のご遺体を何とかご家族に返してあげたいと無数のご遺体の確認作業に携わってこられた熊倉前相馬市議会議員、そして、③逃げまどう人々を避難させ、その後は捜索活動に従事してこられた長澤南相馬市消防団長。
お三方の心の叫びを聞かせていただきました。
そして、あれから一週間。今日を迎えました。あの大震災から1年です。
お亡くなりになられた皆さまのご冥福、被災された皆さまへのお見舞いを申し上げます。
皆さんは、あの時どちらにおられたでしょうか。私は、母の田舎である山梨・下部へ両親とともに墓参りに行っていました。山梨であの巨大地震に遭遇し、その日の夜に地元・東村山で会議がありましたので、すぐに戻ろうとしましたが、中央線は止まり、中央高速も通行止め。結局、その日は下部に一泊。その夜、宿のテレビに移った画像は衝撃そのものでした。
東京にいる兄に5時間ほどしてようやく電話がつながったものの、兄も共働きの嫁さんとは、全く連絡が取れないとのこと。深夜になって、ようやく家族全員の無事を確認することができました。多くの帰宅困難者が出て、その後計画停電にも苦しみ、ガソリン不足にも悩みました。原発事故の影響に怯えもしました。
しかし、我々関東の人間にとっての3.11は、1~2週間のうちには落ち着いてきました。
そんな中、私の携帯が鳴ったのは3月20日前後だったと思います。電話の主は、東京中野の松本文明前衆議院議員。
「亀ちゃん(亀岡偉民さん)が、『支援物資が足りない、遺体捜索の人手が足りない、助けてくれ』と言ってきている。でも、亀ちゃんの選挙区は、南相馬市、相馬市、飯館村、伊達市など福島原発著直下だ。正直、被爆の心配もある。俺(松本)はもう60だが、木原ちゃんはまだ40で子どもつくらないといけない、行くか行かないかは任せるし、無理にとはいわないが、何とかしてやろうじゃねえか。」
何故か不思議と迷うことなく、自然と身体が動いて、大量の支援物資を携えて、3月24日~26日にかけて南相馬市、相馬市に入り、消防団が率いる遺体捜索隊に合流しました。
私の父の母方は福島・会津の出身。私のDNAが働いたのかもしれません。
支援物資の一部は、私の地元(東村山、東久留米、東大和、清瀬、武蔵村山)に呼びかけて集めてもらったものでしたが、あっという間に大量の支援物資が集まったことには、あらためて、日本人の心、地域の絆に感激!!
福島に入ってあらためて感じたことは、「政治の貧困」。南相馬市、相馬市での遺体活動を終えて宿泊場所の福島市へ深夜バスで戻ると、市内は数キロにわたって車の大行列。しかも無人の車です。
「避難してこられた皆さまのお車ですか」、私の問いかけに、亀岡事務所の若い方は、「そうではありません。ガソリンの給油待ちの列です。2日並んで漸く1000円分入れられるんです」。
しかし、外は雪です。福島の皆さんは、一日中列にならんで、夜になると、積んできた自転車に乗って家に戻り、翌朝、また車に戻るとのことでした。
これは、正に政治の貧困、劣化。この先進国で、震災から2週間もたって、被災地にガソリンが届かないとは・・・。
もし田中角栄さんが生きておられたら、石油会社各社の社長を呼びつけて、「明日中に、石油を被災地に運び込むんだ。それができないようなら、二度と自民党の門をくぐるんじゃない」、そう動いたはずです。
ガソリンスタンドが壊滅状態の中、ガソリンを運ぶタンクからの直接給油は認められていないので、なかなか難しい、そういう現実は確かにありました。でも、もし、後藤田正晴さんいらしたら、「責任は俺が取る。だから、直接給油してやってほしい。大丈夫だ」。そうおっしゃったはずです。
政治主導だ、改革だ、維新だ、言葉は勇ましいが、現実は何にも動かない、それが今の政治の現実。国会議員は722人。落選の前職、元職も入れれば、その倍近くいる。全員が被災地に入って活動をすればいいのに・・・。
その一方で、放射能拡散予想の情報は国民に知らされず隠ぺいされ、アメリカがもちかけたように、早い段階で福島原発の廃炉を決断し、水棺を決断していれば、原発のメルトダウンも防げたはずです。
あの時、政権中枢にいた人々の行動は万死に値する、そう言わざるを得ません。
そして、私の耳に今でも残る一人の女性の言葉。この女性は、被災地で殉職された消防団長の奥様です。3月24日、我々が避難所に支援物資を運びこんだところ、その女性が私どもの元につかつかと寄ってこられたおっしゃったことは・・・、
「私達の故郷は、原発の10キロ~20キロの圏内にあります。(10キロ圏内は強制退去ですが)10キロ~20キロに対して、政府は自主避難というあいまいな措置を取っています。しかし、自主避難なんて訳の分からない責任逃れの言い方では、私達が、逃げることは決してありません。自分の主人やその仲間達が、命懸けで守ってくれた命、故郷ですから、私達は決してこの地を捨てることはありません。」
結局、日本を守ったのは、政治家ではなくて、被災地の被災者であり、国民一人一人でした。
震災から1年、あらためて私は、今年も「具体的に行動する」と心底決意しています。
ただ単に、駅前で格好いいことをしゃべったり、テレビの前でパフォーマンスしたりということではなく、本当に自ら動く政治をしなければならないなと。首相公選制、二院制廃止・・・、制度を変えることもけっこう、でも、結局は、政治家一人一人が行動すること、それでしか、政治はよくならないのだと。
3月24日~26日に最初に福島県に入って以降、3度にわたって現地に支援物資をお届けしボランティア活動に従事しました。また、昨年は、東村山市、清瀬市の市民祭りで、福島県のブースを出させていただいて、風評被害にあう福島産品を売らせていただきました。
まだまだ復興は第一歩が始まったばかり・・・。継続こそ力なりです。多くの皆さまのご協力をいただきながら、今年も復興に向けて、出来ることを一つずつ取り組んでいきます。
復興こそ、政治が取り組むべき喫緊の課題です。
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木原誠二について
木原 誠二
衆議院議員・自由民主党 第20区支部長
自民党幹事長代理・政調会長特別補佐
5つの基本政策