2008.01.01
サラリーマンの父の仕事の関係で、9ヶ月~5歳のときにシカゴ、8歳のときにアムステルダムで生活をしました。
まだまだ、海外に住む日本人が少なく、アムステルダムの日本人学校3年生は僅か5人の時代です。
子供ながらに、世界の奥深さ、楽しさ、そして怖さも感じていたように思います。
そして、アムステルデムでの最大の楽しみは、各地の教会巡り。一番好きな教会は、ミラノの大聖堂。大人になってからも教会巡りは続けており、日経新聞夕刊の私の趣味欄でも紹介してもらいました。
そんな私が選んだ職業は、大蔵省、政治家でした。
日本に戻ってからは、野球に燃えました。
プロ野球のピッチャーのフォームを真似ることに熱中していました。巨人の角投手や江川投手が当時のお気に入り。
人を真似るのが上達の極意であることを学びました。
野球のお陰でドッジボールも得意でしたし、ガキ大将として楽しい小学校生活を過ごしました。
今でも、バッティングセンターで、130キロぐらいは打てますし、90キロ程度のボールも投げられます。
1983年に入学した武蔵中学校・高校は、校則も制服もない、「自ら考え自ら学ぶ」がモットーである自由な校風の学校です。
この武蔵中学・高校で、テニスとピアノに熱中していました。
あまりに自由すぎて、時として自由を履き違え、羽目を外すこともありましたが、6年間を通じて、自由であることの難しさと厳しさを学んだときでした。
1989年に入学した東京大学法学部。
法学部に入ったというよりも、中高と続けてきたテニスにさらに没頭する大学生活となりました。何しろ、渋谷のセンター街も膝や裾に穴のあいたテニスウェアで歩いていました。
朝7時~8時半の練習、午後3時~6時までの午後の練習、そして昼の自由練習。練習の合間は、京都ラーメンの名店、天下一品を食べる生活でした。
そして、キャプテンとして仲間をひっぱる経験も。お陰様で、関東団体戦準優勝、全国選抜ダブルストーナメントで3位になることもできました。
大学生活で学んだことは、練習は嘘をつかない、人を引張るには率先して自分が動くしかない、という二つのことでした。
大学時代に汗をともに流した仲間が今も最高の宝物です。
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木原誠二について
木原 誠二
衆議院議員・自由民主党 第20区支部長
自民党幹事長代理・政調会長特別補佐
5つの基本政策